少年非行と渋沢栄一

渋沢栄一 非行
渋沢栄一の写真

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渋沢栄一と少年非行

渋沢栄一が養育院(現:東京都健康長寿医療センター)について語ったという、こんな記述があります。

・・・子どもに対する取扱方が、厳格に躾けねば情弱になるとして厳格であったので、子どもの将来のため決して策の得たものではないと感じ、『児童の為めに親に代つて心配して呉れる人が必要である』、と直ちに職員を任用した結果、児童の性質がよくなった・・・

 子どもへの福祉的な対応の本質を突いた言葉です。

非行少年対応のセクション(感化部と呼ばれた)をつくり(現在の字王自立支援施設である東京都立萩山実務学校につながる)、児童の感化教育(育てなおし)に尽力したとのことです。

渋沢栄一と養育院の歴史

渋沢栄一は、近代日本の経済発展に大きく寄与した人物で、明治時代、銀行制度の確立に貢献し、1873年に日本初の近代的な銀行である第一国立銀行を設立しました。東京証券取引所や東京ガス、王子製紙など、数多くの企業の設立にも関与しました。

一方彼は、商業活動が社会に貢献することを強く信じていました。中でも特に長い間院長を務めたのが、明治初期に東京で設立された救貧施設「養育院」です。大蔵省を辞めた後、彼は50年以上にわたり養育院の維持と拡大に尽力しました。

東京市養育院巣鴨分院 - ゆかりの写真|渋沢栄一ゆかりの地|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

興味深いことに、渋沢は初めから慈善家だったわけではありません。養育院の初代院長としての役割を担うことになった経緯について、彼は「(東京府)知事とたまたま縁があった」と語っています。この知事とは、元幕臣の大久保一翁であり、渋沢とは深い関係がありました。

松平定信を尊敬していた ~七分積金と養育院の設立~

養育院の設立には、江戸時代に町民が蓄えた基金「七分積金」と、大久保が描いていた西洋式の医療・福祉施設の構想が結びついています。

七分積金(しちぶつみきん)は、寛政の改革を行った老中として知られる松平定信が推進し、財政の健全化や農業振興を目指して作った制度です。定信は、七分積金の普及を支援し、民間の積み立て貯蓄を奨励することで、経済の安定を図りました。困窮者救済のために町会費を積み立て、火災や飢饉の際に利用されました。

日本史|寛政の改革

1872年、七分積金は東京府に移管され、実業家たちによる営繕会議所が管理することになりました。渋沢は当時、大蔵省で井上馨の右腕として活動しており、東京のインフラ整備が急務であることを理解していました。大久保は、養育院の設立を提案し、渋沢はその運営に関与することになります。

存続の危機と寄付活動

養育院は、大久保が府知事を退任した後、存続の危機に直面しました。「救貧施設は惰民をつくる」といった理由から東京府議会で廃止論が巻き起こり、渋沢は存続を訴えましたが、反対意見が強く、85年には支出が止められました。そこで、渋沢は社交場でバザーを開いたり、財界人から寄付を募ったりして、養育院の運営費を賄いました。

その後、養育院は東京市営に移管され、渋沢は引き続き寄付を募り、運営を支えました。養育院は孤児の養育や不良少年の教育、高齢者の保護など、さまざまな目的のために施設を増やしていきました。

渋沢の福祉観の変遷

渋沢の福祉観は時代とともに変わりました。初めは人道的な見地から救貧を唱えていましたが、明治の終わりには富裕層に対して社会貢献の義務を説くようになりました。大正時代には、貧富の拡大を懸念し、労働者保険や職業紹介などの防貧策を提案しました。

渋沢の福祉への視点を開いたのは、養育院で引き立てた人々でした。彼は晩年、七分積金制度を作った松平定信の伝記を編むなど、定信の功績を称える活動にも力を入れました。

渋沢栄一の活動は、近代日本の福祉制度の基盤を築くとともに、彼自身を慈善家へと導く重要な要素となったのです。

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