津田梅子、渋沢栄一、北里柴三郎と、皇室の国を思うお気持ち

令和の新札の3人 非行

新紙幣の3人と皇室

津田梅子と皇后の涙

津田梅子 | 歴史人物学習館 岩倉使節団と津田梅子 - イタグレと暮らす戌年男のブログ

津田梅子は、日本で最初の女子留学生の5人のうちの一人として知られています。彼女の肖像画が新しい5千円札に登場しました。梅子が留学のために出発する前のことですが、彼女が明治天皇のお后である昭憲皇太后に謁見した際の有名なエピソードをご紹介します。

娘たちに、皇后は「まあ! こないに年端もいかぬ子らが・・・」と小さなお声で嘆じられました。しばらくお言葉が途絶えました。『親ははどれほど手離しがたいことか、娘たちは厳しい決心がいったことか』と、思いを馳せられていることが周囲にいる人には痛いほどに伝わりました。

 よくぞ決心しました。見あげた子どもたちです。そなたたちが学成り、無事帰る日を待っている親の気持ちを、日夜忘れずに励むように。・・・体にだけは充分、気をつけるように。・・・

しばらくは日本の秋にも巡りあえぬであろうからとお思いになられ、皇后は皇居内の御苑の紅葉狩りに5人を連れて行かれました。

美しく染まった紅葉を見ながら、12歳の捨松は、このまま逃げ出して木陰に隠れてしまえば、異国へ行かずにすむかもしれない、という思いを巡らせていました。するとその思いを見透かしたかのように皇后が「これ、捨松とやらと言いましたな」と言われて、はっと我に返った捨松の肩にお手をそっとかけ、「母恋しゅうて心ゆらいでも、せんない年でありましょに」。

皇后の目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が湛えられています。『皇后様が、今まで会った誰よりも親身に泣いて下さっている』、そう思うと、捨松の胸は張り裂けて、「わあっ」と声も涙もとまらなくなりました。他4人も大きな声で泣きました。

付き添いのデ・ロング米国駐日公使夫人は、後にこのように語りました。

 皇后様は母親のように、アメリカまでも付きそって行かれたげなご様子でした。「『肌の色、目の色は違っても愛の心は同じです。ご安心を」とお伝え申し上げました。

少女たちを受け入れたアメリカの各家庭は、その言葉通り、深い愛情を込めて彼女らを育ててくれたとのことです。

皇后の思いに応えた梅子の志

この時の光景は、9歳だった梅子もよく覚えていたことでしょう。皇后陛下は、次のようにも5人に語られました。

 女子にして洋学修行の志を立てられたことは、誠に殊勝なことです。やがてわが国にも女学校が創建されることでしょうが、皆さんは帰国後、婦女の模範となるよう、どうか勉学に精励されますように。

ただ、この時代において、女性の役割に関する考え方は、一般的には、女性は家庭を守るべき存在とされ、家庭内の役割が重視される傾向がありました。この背景には、伝統的な家父長制や儒教的な価値観が影響を与えていました。なので、女性の教育に対する考え方が一面的ではなく、家庭を守るべきという伝統的な見解と、教育を受けるべきという近代的な考え方が交錯していました。

しかし、皇后は、明治天皇が「教育こそが日本の独立を守り、世界に伍していく国づくりの原動力」という強い思いを持たれていたその思し召しに沿って、女子教育確立のために現在の学習院女子中高等科、お茶の水女子大学の設立を後押しされました。

帰国後、梅子は、日本の女子高等教育の確立こそ自分の使命だと考え、女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立しました。これは皇后の思いを実現したものと言えます。

その梅子の志を、現在の歴史教育ではどう教えているかを記した次の興味深い記事をご一読ください。

・・・たとえば、中学歴史教科書でトップシェアを持つ東京書籍版では、津田梅子についての記述は、一緒に渡航した岩倉使節団の説明の後に、5人の女子留学生の写真を掲示し、『岩倉使節団には,5人の女子留学生も同行しました。最年少は津田梅子で、わずか7歳でした。津田は,後に女子教育の発展に力をつくしました。(年齢は,撮影時の満年齢)[東書、p176]、と説明しています。皇后の涙に号泣し、また「日本の女子の高等教育の確立」を志した心境にもまったく触れられず、単なる履歴書の一節のような説明です。これでは中学生たちも人間としての梅子に共感したり、敬愛することはできるはずもありません。・・・

国民一人一人と国の富強を志した渋沢栄一

渋沢栄一の志について、次のエピソードをご紹介します。

渋沢栄一は「利根川が育てた」といえる理由、なぜ農村育ちで先進的思想を持てた? | 新説・新発見!今こそ学ぶ「歴史・地理」 | ダイヤモンド・オンライン

明治37(1904)年、64歳の栄一は高熱を発して、流動食をやっとのことで飲み込む日々が続いていました。肺炎を起こしていたのです。当時、致死率の高かった肺壊疽が進行している事もわかりまた。死を覚悟した栄一は、遺言を記していました。その危篤の知らせに、見舞いの客も大勢訪れました。そんな時、明治天皇から見舞いが送られてきたのです。栄一は感激を歌に詠みました。

伏せ屋もるうめきの声の思いきや雲の上まで聞こゆべしとは(みすぼらしい家から漏れる呻(うめ)き声が天皇にまで届いてしまうとは)

栄一は快方に向かい始めました。明治天皇の「世のため人のために大車輪の活躍をする栄一を頼りに思われていたお気持ち」を、見舞いの菓子折に感じた栄一は、自分にはまだまだ仕事があると改めて震い立ったそうです。この後、20数年も公益事業などに尽力することになります。

また、昭和5(1930)年、死の一年前の90歳、栄一は、面会謝絶の状態でしたが、全国方面委員(現在の民生委員)の話に耳を傾けました。貧窮民20万人を救うため、力を振り絞って大蔵大臣と内務大臣に陳情に行ったのです。

その栄一の志を、現在の歴史教育ではどう教えているかを記した次の興味深い記事をご一読ください。

東京書籍の歴史教科書のコラムに、渋沢栄一についてこう紹介しています。渋沢栄―(1840~1931)  多くの企業を設立した「日本資本主義の父」・・・大蔵省の役人として,富岡製糸場の建設や銀行の設立にたずさわりました。役人を辞めてからは,500以上の企業の設立に関わり,経済の発展に力をつくしました。

日本資本主義の父という、栄一の一面だけを表した表現に過ぎません。現に営利企業よりも多い公益企業を残しています。その志は多くの近代企業を興して、民を豊かにし、国を富強にするためでした。その志こそ、中学生に学んで欲しい処です。

北里柴三郎と天皇の御心

北里柴三郎 | NHK for School

新紙幣で登場したもう一人の人物、北里柴三郎についても、その志が分かるエピソードを紹介しましょう。北里は細菌学の確立者ロベルト・コッホ博士のもとで、破傷風菌の純粋培養などに成功して、世界的な名声を得ました。ケンブリッジ大学から、細菌学研究所を設置するので、その所長として来て欲しい、という要請を受けましたが、それを断るのに、次のような返事を書いています。

(明治天皇から)帰国の上、日本国民の結核患者を治療せよとの恩命をいただいています。私は、現在、他事を顧みずこの研究に従事し、来年、帰国の上は、私が学び得た医学をもって我が同胞の病苦を救い、天皇の御めぐみの万分の一にも報い奉らんとの志です。

天皇の「恩命」、「御めぐみ」とは以下のような事情です。ベルリン大学のコッホの許に留学して4年目の1889(明治22)年、柴三郎はコッホとともに、結核の特効薬ツベルクリンの開発に取り組んでいました。しかし、留学期限は翌年末で切れます。柴三郎は1年間の留学延長願いを内務省に送っていましたが、梨のつぶてでした。国の財政事情が厳しく、内務省でも予算がつかなかったのです。

コッホもなんとか残れないか、と言っていましたが、柴三郎は「無理でしょう」と答えました。そもそも留学期間の延長はありえないことです。それがすでにコッホの熱心な口利きで、一度延長されていました。いくら何でも二度目の延長は無理だろうと、と柴三郎はあきらめていたのです。

●柴三郎の感激

そこに明治天皇から下賜金千円が支給されて、延長が許されることになったのです。巡査の初任給が8円の頃です。現在の貨幣価値で言えば、3千万円ほどにもなりましょう。コッホが日本公使館を尋ねて延長を懇請し、それを受けた内務省衛生局長・長与専斎がツテを辿って、宮内大臣から明治天皇に恩賜金御下賜を請願してくれたのです。

そこで結核を撲滅することは国家の緊急課題であるとして、天皇から特別の御下賜金が下されました。「日本国民の結核に罹るものを治療せよとの恩命」とは、この事です。柴三郎は天皇の国民を思われる御心に感激して、男泣きに泣きました。こういう思いから、ケンブリッジ大学からの誘いなど乗れるわけもありませんでした。

こうした柴三郎を、東書版歴史教科書は、次のように名前を挙げているだけです。

教育の広がりの中で,近代的な学問も発展しました。特に自然科学では,19世紀末から,細菌学の北里柴三郎や野口英世,物理学の長岡半太郎など,世界的に最先端の研究を行う科学者が現れました。

その横に「自然科学の発達」という8行の表があり、その一行にこうあります。

1890 北里柴三郎、破傷風の血清療法を発見

[東書、p197]

これまた経歴書的記述で、北里柴三郎がどんな思いで、どのような志を抱いて、研究に励んだのか、まったく伝わりません。

●国を思われる天皇の祈りの実現のため

新紙幣に登場した3人は国家のために、社会事業、女子教育、医療とそれぞれの分野で偉大な業績をあげたのですが、いずれもその背後から皇室の後押しがあったことが共通点です。この点は、日本の国民と国家との関係を考える上で、非常に重要な鍵です。

たとえば、北里柴三郎がケンブリッジ大学の破格の申し出を断って、日本に帰国して国民を結核から救おうとした事は、確かに彼の愛国心からですが、その愛国心の中核は、天皇から自分は期待されているのだ、という感激なのです。

国を愛するといっても、その国は姿形の見えない抽象的な概念です。人間の心は抽象的な概念では動きません。それに対して、明治天皇とは具体的なお心をお持ちの一人の人間です。その明治天皇が国民を救おうと自分に期待して御下賜金を下された、ということに、柴三郎は感激したのです。

同様に、梅子ら5人の女子留学生は、自分たちのために泣いて下さっている皇后の思いに号泣しました。渋沢栄一は、自分のために菓子折を下賜される天皇の御心を察して、まだまだ働かなければならないと思ったのでしょう。

こう考えると、国家の中心に皇室を戴き、代々の皇室が「民安かれ」の祈りを伝えてこられた国の姿には、独特の意義があります。どこの国でも国家のために尽くす愛国者はいますが、我が国においては、抽象的な国のため、ではなく、国民を思われる天皇という具体的な人間の祈りに後押しされ、その祈りを自分も助けたい、と思うことで、心の奥底からの気概が生まれてくるのです。

●「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」

「人の心を動かすのは、概念ではなく人物の思い」という原則が分かると、『学習指導要領・地理歴史編』で目標とされている「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」に至る道筋も見えてきます。日本国や日本史を概念知識として教え込むことに止まっていては、「自覚」や「愛情」には至りません。

国家や歴史という概念用語を、家族や郷里の人々、自分を今まで育ててくれた人々、さらには国のために尽くした先人たちの思いで肉付けして始めて、我々は「歴史に対する愛情」を抱き、「日本国民としての自覚」が生まれるのです。

「1890 北里柴三郎、破傷風の血清療法を発見」というような知識の詰め込みでは、子供たちの心に愛情と自覚は生まれません。「天皇が国民を結核から救うために北里柴三郎に異例の御下賜金を下し、北里はケンブリッジからの誘いを断って帰国した」という物語に感激して、子供たちはそういう国への愛情と、自分も明治天皇や北里柴三郎と同胞だという国民としての自覚が生まれてくるのです。

たとえば、歴史人物学習館は、歴史人物に関するお勧めネット教材を小中学生に視聴して貰い、感想文を書いて貰っていますが、今まで、津田梅子と渋沢栄一については、以下の2編が表彰されています。

 私も梅子のように今の状況を変えるために努力をし続けるなどといった強い志を大切にし、何事にもくじけないひたむきな姿勢を持って行きたい。(中二)
「世のため、人のため」に様々な会社を建てた。自分はそれを行動に移すことがすごいと感じた。人々、そして日本のために努力してきてくれた渋沢栄一のおかげで、私たちは幸せに生きられると感じました。(中二)

こうした歴史人物の思いと志を知る歴史人物学習でこそ、子供たちの「日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」が生まれてくるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました